マンガ家は自分でマンガを俗っぽいものだと思っているのか、ただ単に権威が嫌いなのか「芸術」や「アート」は嫌いな人が多い。記憶がおぼろげだがNARUTOを中学生のときに友達家でなんとなく見ていたらその作者は芸術系の大学に行っていたらしく、その大学全体の権威的な雰囲気がいやだったらしく、それを単行本の文章ではげしく糾弾していた。その他にも色んなマンガを見ているとそういうものがバカにされている。(商業、非商業、問わず。)
そのような権威は批判されるべきだろう。もちろんそのようなアート、芸術ぶったマンガも批判されるべきである。しかし、誰か傍観者がただアートと決め付けただけで、そのような権威も気にせずにただ絵を描きたいから描く人(絵に限らず、そのような動機による表現)もいるだろう。そのような人々は批判されるべきではない。そのような人を批判する行為はただ、小学生がちょっと自分達とは違う者を苛めているのと一緒である。
同時に、マンガやアート問わず自分の描いたものを誰にも認められなくても、それでいい、と思いながら描けなければならない。ゴミだとかキチガイだとかいう罵倒をされてもかまわないという精神がなければならない。間違っても芸術だとかアートと胸を張って名前を自称する者はただの芸術屋なのだ。(元ガロ編集長の白取氏がいうマンガ屋がいるように)
しかし、マンガ家の中途半端な芸術批判(というよりバカにしてるだけ)を見てると、その蓄群本能的な子供っぽさに辟易する。自分は芸術もマンガもそのような中身がない名前はどうでもいいのだ。そんな名前に振り回されるのは真っ平だ。
- 2008/08/09(土) 21:19:30|
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現代資本主義ニヒリズムと仏教的ニヒリズムは一体なにが違うんだろうか。
もう本っ当に、このブログやミキシイでは同じ言葉を繰り返しています。はっきり言って金太郎飴です。金太郎飴とでもいうブログ名にでもしようかと考えているくらいです。何一つ解決できた感がなく、掻き毟るばかりです。
そういうところで、ヘラヘラした感じになれないので、ヘラヘラした人を見るとむかつきます。(自分でなってないと思いこんでるだけで、ヘラヘラしてんのかもしれないけど)
そんなことはどうでもいいのですが、矛盾や疑問が沸々と次から次へと姿形を変えて沸いてきます。言葉を代えて出てくる言葉の意味は「どうしようもない」という意味でしかなく、それは自分がどうしようもない人間だからなのですが「どうしようもない」ことを「あーでもない、こーでもない」と繰り返すのが自分のここのところの循環的思考方法です。
あらゆる問題に最終的解決はない。が、なにか自分のやるべきことに対するバックボーンが少しでもなければなにもやる気になれない小心者です。はっきりいってアナキズムでもなんでも思想や哲学、宗教なんてものはなんの解決策にもなりえなく(まったくちょっとしか読んでないけど)、この現代の現状を前にしてなんの説得力もない。というのが正直なところです。けれどもそれでいいんだ、と諦められないからこうしてワルアガキをして、やはり自分が思想のなかでもっともよいと思うのはアナキズムだし、本も役に立つのかどうかも解らないで齧り読みを続けています。しかし、まったく自分は言葉も表現も信じられなくなっている状況です。信じられることがなにもない、という状況で一体なにを書くことができるだろうか?
自分の結論は結論らしからぬ結論です。つまり、答えは簡単、どうしようもないということを書くしかないという結論に至りました。無責任ながら、「…すべきだ」とか「…のために」とかいうことを書く気は毛頭ありません。疑問を書くだけです。皆や、自分さえもが「しょうがない」と諦めることを徹底的に描写することです。その疑問をどれだけ書ききり定着させられるかが、努力すべき点である。
(ここからは日記を)
最近はもう本当に孤独でやり切れません。こうやって文章書いたりしてないと自意識がなくなっておかしくなりそうです。
なにか話し合っても孤独には変わりないかもしれないが…。
生ずるは独り、死するも独り、共に住するといえど独り、さすれば、共にはつるなき故なり
持つだけの郵便ポスト…。
それはともかくこのブログではここ暫くはまた同じような文章を続けていくことになりそうです。
- 2008/08/06(水) 00:16:14|
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ふと私はその人を見つめた。すると相手も私も見つめた。私の視線が相手の視線を引き寄せたのだが、取り立ててなんの用もなかったので私は目を逸らした。 逸らしてしまったので見当もつかないが相手もおそらく目を逸らして歩き続けただろう。
このときのことを思い返すたびに、鏡が鏡をどこまでも映している、という漠然とした印象をうける。
また、その日の夜に窓の外の電灯の遠近法を見ていたらなにか点滅する光が遠くに見えた。その一定ではない信号はなにか私に伝えようとしているんだろうか。しかし、その信号を解読する力を持たないので、そこになにか伝えようとしている人がいるということに満足しようと言い聞かせた。
予兆をつげる明滅がどこにでもあった。が、何一つそれがなにを意味しているか知らず、また、知ろうとも思わない。
次の日、私はその中の明滅の一つであることを知った。光はその発信する者の意図とは関係なく点滅し続ける。意図を持った者達は対面することで相互に光をうつす鏡になる。映された唯一者は打ち砕かればら撒かれたガラスの破片。
- 2008/08/01(金) 16:01:46|
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原因不明と言われる病気に家族がかかることが多い。自分なんかはストレスが溜まったときに肌が弱くなってボロボロに剥げ落ちる湿疹みたいのにかかったことがある。そんなのは軟膏塗ればすぐ治るから病気ってほどじゃないけど、大体、ストレスってもの事態が曖昧な概念だ。仕事を辞めたら生活が心配になってストレスが溜まるし、仕事を切り詰めてやればストレスが溜まるし、ストレスをなくすなんて不可能に近い。ストレスをなくすのにストレスがかかったりなんてアホらしいことを実際してるわけだ。
誰だって病気になる可能性をもっている。絶対的に健康な人なんて不老不死と同じようにいやしない。だから個人は脆い存在である。脆いからこそ瞬間、瞬間が尊いのだ…。
どんなこと書いてもなんか違う気がします。言いたいことを書く能力がないようです。とにかくただ悔しいとしかいいようがありません。そんな気持ちはどんな行動にも繋がらないように思えます。悔しい気持ちはどんな思想とも哲学とも結びつかずただ資本に流れていくだけのようです。
- 2008/07/28(月) 15:23:18|
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幼い青年らしい正義感や反抗心も、悟りきったような老年の無言もすべて一緒である。ちょっとした調整があるかないかだけだろう。 起こってしまった、起こってしまう出来事に既に参加させられてる。肉とか骨の摺り合いの振動があるだけだ。
- 2008/07/16(水) 14:25:52|
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