子供がいつもなにかを左手の掌に握っているので、周りの興味を惹く。
母が「なにを握っているの?」と聞いても、子供は黙りこくってる。
父はちょうどいい時宜に小さい策略を仕掛けてみる。夕飯の時に「ちゃんと左手を使いなさい」と、自分はちゃんと胡坐もかかないで片足を挙げた姿勢で座ってるくせに(だから普段は命令などしないのに)命令しだした。
子供は無視して父親は怒ってみたが、別にどうでもよくなった。
この子供の癖はいつからだったか。確か、ちょうど幼稚園に行き始めたときである。
幼稚園でも左手が使えないと不便きまわりなかったので、子供はそのなにかを握り締める行為を三日しか続けられなかった。しかし、左手が使えないとなるとよく三日も続けられたと関心してしまう。
そして、と言っても不便さがキッカケで辞めたわけではない。不便さは子供に冒険を作り出す。では一体何故掌を開いてしまったかというとちょっとした事件を説明しなければならない。
一緒にいたもう一人の子供が気になったらしくじっと見ていた。その子供は手になにか隠していると思ったらしく先生に言いつけた。
「先生。○○君が〜、手になにか隠してます!!!」
その子供はいつしか親と一緒に猫とじゃれあいながらテレビで見た戦争映画の口真似をなんとなく思い出し、してみた。そしてその口真似は以降、お気に入りのものとなった。
先生はなにか飴でも隠しているんだろうと思ったが一応、隠している子供に問い質す
「一体、なにを隠しているの」
当然、黙っている。
そして、その二人の空間にわらわらと子供達が集まりだした。そして言いつけた子供が大声でテレビで見た演説する政治家の真似で皆に説明しだした。
そうすれば、隠している掌をこじくりあけようとする奴がでるとしてもおかしくはない。それでなければなにがあるのかと雁首ならべてる好奇の目だ。
先生は「やめなさい!」と怒鳴ろうとしたが、握り締めていた手は呆気なく開かれた。一切の目が集中する。
手にはなにもない。
「なーんだ、なんにもないじゃん」
これが小さい事件の顛末。
しかし、皆の目が注がれる事件の後も誰にも見られない日常が続く。子供は畳に寝そべり手の平を見つめている。父も母も掌のことは忘れている。手の平には無数の線がびっしりと刻まれている。親指と人差し指の間からの太い線は罅割れのように見える。そのひび割れた線は二つに分かれて、育ちかけの林檎の木のようだと思う。
時が過ぎれば自分のこともかつてとなり忘れる。
しかし、コンビニのバイトをしてお金を貰い差し出す作業をし、黒ずんだ手などを見ていると、突然そのことを、バイトに行きたくなくて眠れなくて魘されて汗をびっしょりかいて起きた真夜中、天井をボ〜っと見つめていたら突然思い出した。
もし自分が今なんにもない手を差し出したりしたら、そこにお金があると思っている客は「こいつ、頭おかしいんじゃねえか?」と怖くなるだろう。
- 2008/04/28(月) 23:05:36|
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- 2008/04/29(火) 12:36:41 |
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