虚無の会

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こころのやまい?

「こんな中で(精神的)病気にならないほうがおかしいんだ」

一体、誰が症状を決めるのか。俺からしてみれば、病気じゃない者のほうが病気だ。
社会は病気である。病気の社会や、病気でない社会があるのではなく、社会は病気の別名である。

欠陥のない社会などあるだろうか。完璧である社会があるとすれば、それはまた一種の病気なのだ。

 正常や病気という概念は、人々の立場によってどうにでも決められる。いうまでもなく、社会で「正常」(?)に働いている者たちが症状を作り出したのだ。還元すれば、社会のなかで正常と認められた病気な人々が作り出した。
 だから、精神病と診断されたものからしてみれば、正常に働いているものたちが病気なのである。
最大の病気の診断の権限を持っているのは多数派である。医者が「病気じゃない」と言ったところで、社会のなかでの日常生活に支障をきたす者は周りから「病気」だと言われるのだから。
 多数派にとって、精神病者が自分達に良いか悪いかを判断する秤は、当然ながら自分に利害をもたらすかということだけだ。マンガやテレビなどのメディアを通してであれば自分に利害が及ばないので見世物小屋感覚で見れるし、そのような好奇心を利用してメディアは病気を(もしかしたら自分の病気をも)利用するのだ。逆に、これも当然だが、その精神病者が自分の生活に影響を及ぼす場合は嫌悪される。
 そして、多数派や少数派と一応、区切りを付けたが、少数派が多数派とは常に入れ替わるし、一人の人間に一つの社会的関係しかないはずがなく、多種多様な関係のなかで多数派になったり少数派になったりする。絶対的な関係などないのだ。


精神病の人々は言っていることが支離滅裂だと言われる。しかし、それは社会が支離滅裂だからでしかない。「言葉」こそが支離滅裂を作り出す。支離滅裂にその場その場でコロコロ発言を変える奴らの行動事態には一貫した欲望が通っている。


一番、考える限り愚かで救いようがないのは社会を絶対の正常とし、自分を異常とし、自分を負け組と決め付け「社会はそんなに甘くない…」なんて愚痴を吐くやつだ。社会ってのはどこにいるんだろうか?国民も。社会という病原菌に取り付かれたようなやつしかいないだろう。
 だから、病気であると診断された者が少数派で正しく、病気と診断した者が悪いなどということもない。精神病と診断された者を可哀想と思う者が、以前として精神病としてその者をサベツしているから、精神病だから蔑む者と根本的に変わらない。

すべてが病気であるか、すべてが正常であるか
  1. 2008/05/27(火) 15:59:43|
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模写愚痴絵

らくがき


左はパウル・クレーの模写です。 アナキズム系の著作読み返しています。今更だけど、ホントに生きるために役に立たないことばかりしてます。
  1. 2008/05/26(月) 16:22:55|
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ブランショ「白日の狂気」と日々。

 「白日の狂気」は48年、「エンペドレクス」に発表された。ブランショは「文学空間」で自殺としての死の不可能性を解いた人として有名で(多分)自分も一時期、かなり感銘をうけた。
 
この小説は短く、断章形式だ。この小説がいいかどうかは解らない。むずかしずぎて!
今回は感銘を受けた部分を抜き取ってみるだかです。

最初は冒頭。

「わたしは物識りでもなく無知でもない。わたしはさまざまな歓びを知った。それでは言い足りない。わたしは生きており、そしてこの生は、わたしになによりも大きな喜びを与える。それでは、死はどうなのか?わたしが(おそらくは間もなく)死ぬとき、わたしは計りしれぬ喜びを知るだろう。わたしがいうのは味気なく、しばしば不快な前味のことではない。苦しむことは思考を鈍らせる。わたしが確信している著しい事実とは次のようなものだ、わたしは生きることにかぎりない喜びを感じており、死ぬことにかぎりない満足を抱くであろう、と。」

死は人間の最大の神秘である。科学的な死の説明はその神秘性を拡大させるだけである。死は主体の最大の問題を示している。死を思えばなんとかちょっと苦しいことは耐えられる。煩雑な、永遠に続くと思われるような日常にも絶えられる。

そして最後のほう。寺山修司みたい。

「ひとはわたしにたずねていた、いったい「正確なところ」事はどんなふうにして起こったのかわれわれに話してください。−物語?私ははじめた。わたしは物識りでもなく無知でもない。わたしはさまざまな歓びを知ったそれでは言い足りない。わたしは彼らに話をそっくり語り、彼らはそれを、どうやらわたしの見るところ少なくともはじめのうちは関心をもって聞いていた。しかし、結末はわれわれにとって共通の驚きであった。「その発端のあとは」と彼らは言うのだった、「事実の方に話しを進めてもらいたい。」なんということか?物語は終わっていたのだ。」

「わたしはこうした出来事をもってひとつの物語をつくりあげる能力のないことを認めなければならなかった。…一人の作家、明晰に語り推論する男とは、かならず記憶している事実を物語る能力をそなえてると固く信じ込んでいるのだった。」「物語?いや、物語はなしだ、もう二度として」

 弱者も強者も同様にして、事実はこうであったと語るのは常に権力意思によってである。描く者、書く者は騙る者として絶対権力である。

 語られなかった事実を、事実のまま拾うのは不可能だ。拾うようにして書かれた弱者の歴史には、そこには私たちの「ための」事実があるだけだ。死者の再利用。リサイクル。

 それでも、絶対的加害者の意識を忘れずに語り続けなければならない。それでなくとも、「生まれてきたくて、生まれてきたんじゃねえ」は無意識に昇ってくるから。

 



  1. 2008/05/23(金) 22:23:07|
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歴史のなかの虚無 2

 前回は時代のなかでの気分を書いてきました。手っ取り早くいえば、そういう時代の気分に振り回されること事態がアホらしいと思いませんか?

 その時代、時代に大多数の人々が持つ情報が集団的気分を作り出しそれが文化を作り出しています。次から次へと消費していって、新しい気分はなくなり、今では自由自在に(まったく不自由に)暗くなったり、明るくなったりできます。でも、絶対にそれを信じることはできません。

 本当に信じているなら、他の分野の人に認めさせようとするはずです。でも、認めさせようとしないのはやはり文化を信じていないからだと思います。だから「皆、好き好きに」穴倉に入ってればいいわけです。
 今のところ時代の気分に寄り添える文化はなく全て過去の焼き直しです。

 この今の時代の気分はかなりニヒリスティックなものではないでしょうか。しかし、時代の気分を信じていない人々からしてみれば見え透いた、解りきったことだと思います。文化を信じない人々は生活だけが大切だということを解っていたはずです。むしろ、生活から文化は生まれるはずだと思うのですが、生活と文化が乖離しているように見えるのは何故でしょうか。

 生活に対する「理由がない」虚無感をこれまでの文化は置き去りにしてきたと思います。虚無感と遊ぶぐらいのことしかしなかったように見えます。

                                                  多分、続く

 
  1. 2008/05/20(火) 13:13:21|
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歴史のなかでの虚無

よく、面白くない独りよがりな文章、表現に対しては「オナニー」だと言われることが多々、見受けられる。(じゃあ、人に解らせる文章はセックスじゃないか)
ちゃんと他人に解らせるつもりもないんだったら公共の場で描くな。ということだろう。

では、解らせる文章とはどういう形式をとるか。まず、前提としてはそのような文章は誰でもいつでも読んだことあるような旧式の文体で、読者はその何度も読んだことがある慣れた文体に乗っかって手取り足取りされる。
そして大抵は「これが悪くてこれがいいんだ」というものだ。それに説得力をつけるために情報を収集したり補足を付け加えたりする。そして、それで文章の大半を費やすことになる。(人に何かを伝えるってことはシンドイ作業やね。セックスと同じで)
 あとは、わざと気を衒った挑発的な文体で書くことだ。大杉 栄も辻 潤もその演技的文がうまい。

続きを読むでは、その痴呆的伝達の文章構成で私の虚無主義の立場から「共同体」について書きたいと思います。でも、オナニーになるかもしんないです。文章ヘタだから [歴史のなかでの虚無]の続きを読む
  1. 2008/05/19(月) 13:55:34|
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マイノリティと被害者意識

 
 マイノリティであることを自分から言う表現者は疑ったほうがいい。マイノリティであることは本当に死んでしまう危機があり、生き延びたいという切実さだけが言っていい言葉だ。

 グリーン・デイのあの誰でもなんとなく聞いたことがある曲のサビの歌詞は確か「マジョリティよりマイノリティになりたい」とか唄っていた。「なりたい」と自分が少数派でないことを自覚していることにおいては「俺達は少数派だ」と誇っている人よりかは幾らかマシな歌詞だ。

一番、考える限り最低なのはどっからどう見ても多数派に属している者が「自分は少数派だ」と勘違いすることだ。今、多数派に属している人々のどれだけが多数派だと自覚しているのか?

ここまで書いてきて多数派や少数派という言葉自体が信じられないように思えてきた。
誰が誰を少数派だと許可するのか。自分か。他人か。統計か。

少なくとも、表現者がいうマイノリティは被害者意識から来る。被害者であることは確かにそうだろう。しかし、被害者であることと同時に生きてる限り私たちは絶対に加害者である。その加害者であることを忘れた、または開き直った者を全力で私は加害者の立場として否定したい。被害者意識によってつなげられた集団など早々と壊れてしまったほうがいい。また自分が被害者だと装う者の嘘は暴露されてしまったほうがいい。

捨てられたゴミが「捨てられたゴミ」として価値があるのは捨てられている場合でだけだ。今、価値あるものされている表現はすべて拾われたゴミである(社会で役にたたない意味で)。捨てられたゴミを拾ったことで自分がそのゴミと同等だと思うのは馬鹿げた話しだ。



  1. 2008/05/16(金) 10:27:43|
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農薬かぶる

 今日は、午前中から例の病気になったニラの件で労働してました。 その作業というのはニラを全部地面すれすれのところで切り、切ったニラをビニール袋に入れ、畑のほうのニラに消毒の農薬を散布するという単純な作業です。

そのニラの病気がカビの一種で、すばやく終わらせないといけないので、今日一日丸まる働かなければならなかったわけです。(しかし、この作業をして本当にニラが治るかは不明。)

で農薬の水を大量に入れた機械を背負ってニラに農薬を散布していたのですが、夕方頃、半分ぐらいにさしかかったころ、農薬が切れたのでまた入れなおして「いくぜ!」と背負ったところこうなりました。

事故


蓋をつけ忘れたのです。幸い、人体に影響あるような強い薬品ではなかったので良かったんですが、

諸君!過激な長時間労働はこのような不注意を引き起こす!休みをとるのは大事なことだ!気をつけよう


  1. 2008/05/15(木) 19:58:47|
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同人誌SMT(走馬燈)情報公開所、兼、虚無の会、情報公開所

新しく作りました。↓です。

同人誌SMT(走馬燈)情報公開所、兼、虚無の会、情報公開所


少しずつ更新していくつもりです。カテゴリーにあるマンガ空間論というのは斉藤さんが書く「マンガならではの表現」についての文章です。楽しみです。


この観想さいとは名前を改め乾燥さいとにしました。すこしづつ砂地獄におぼれていくように死に絶えていくと思います。んな大袈裟な!アデー!
  1. 2008/05/14(水) 14:06:01|
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 本当に自分みたいなクソみたいなカスみたいなウンコみたいなゲリみたいなアホみたいな犬みたいなクズみたいなアホみたいなマユゲみたいな乾燥肌みたいな外来魚みたいなブルーギルみたいなエゾホトケドジョウみたいな変態や郎みたいな機械みたいな賞味期限みたいな、ウジ虫みたいな、ネズミみたいな金魚みたいな野郎はいつでも、どこでも、どんなときでも、いつもなにかに落ち込んでるということにやっといまさらながら気づきました。これではあまりにもバカみたい(バカだけど)なので深く考えないように(元々考えてないけど)しようと勤めようとおもいます。

テーマ:今日の出来事 - ジャンル:日記

  1. 2008/05/13(火) 10:16:29|
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ああ

 ニラが黄色く枯れてきているので、農協の人に見てもらったら案の定、病気だった。
葉の部分だけの病気だったら消毒で済むが、根本からだと難しいらしい。で、やっぱり根本が赤くなっていて…。

 農薬とかは農協の人からしてみれば、あんまり使ってほしくないらしく「病気になっても処理できるから…云々」と言っていたんだけど…。


 それとさっきネットで調べてみたら村上隆をずっと有名な小説家と勘違いしていたのを知りました。そんで、村上隆がどこからどこまでもどっから見ても胡散臭さ満点で吹いてしまいました。これじゃあ、現代美術はゴミだと言い続けなければならないでしょうね。
 ほんとうにこんなくだらねーやつがいると思うと情けない…。
  1. 2008/05/12(月) 15:14:47|
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やつら 主体の問題


 「まず公と私を混同したい。何故なら、最初っから公も私もないからだ。
 
 そして自分が嘘つきであることぐらいしか、人に信用してもらうことはない。許せないのはいつでも、嘘をつくやつらだ。正真正銘、役に立たない、嘘つきなやつは誰の目からも役に立たないうそつきである明らかな事実によって、周りが被る被害は少ない。

 それに比べて、なんでもかんでも嘘、希望を吐いてるやつらのやることは周りに対する被害が多い。見えない病原菌だ。

 しかし、そんなやつらはウジャウジャ沸いてくる。

「あなたもそれを望んでいる」と言って。それとは、家族やあなたのためや生きるためのパンや死ぬためのパンやらを。

 一番たちの悪いやつは、自分で自分が言ってる嘘を嘘だと思わないやつらだ。そして嘘っぱちに保障があると思って信じきるやつらだ。

心身ともに抑圧されている人々に吐き気がする救いの手を差しのべるやつらを警戒しなければならない。ましてや信用などは絶対にしてはいけない。

そして一層突き詰めていえば、「私も同じ境遇にいる」という奴らだ。同じ境遇にいるからといって信用する必要はない。仲間意識をぶらさげて私の行動がやつの意に適わなければ勝手に「裏切り者」呼ばわりするやつらを信用する必要はない。
信用に値するものはないし未来に保障はない。」

「そうなれば、連帯も友愛もなければ、ただ空虚な法や契約があるだけになるだろう。次いで、その法もなくなり法がなくなれば個人個人がエゴイズムをむき出しになって世の中は乱れてしまう」

「暴力には二つの種類がある。ただのむき出しの暴力と、なにかのための暴力と。なにかのための暴力のほうが個々のむき出しの暴力に比せないほどの被害を被らせる。そのあと皆でしょうがないといって納得するふり」




  1. 2008/05/11(日) 17:30:39|
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SMT

匿名の方から、「SMT情報公開所とか言って、おまえの愚痴ばっかじゃねえか!」という趣旨のメールを頂ました。近々、SMT情報公開所を新しく作ろうと思います。アデュー!!
  1. 2008/05/05(月) 12:15:54|
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へなへなイェーイェーーイイェーヘナヘナイイェーイェーイイェーチェ!ッチェウ!!チェっ!チェウ!あおう!

昨日、風呂に入るときに、上半身裸になって兄に「イギー・ポップみたいだべ?」と聞いたら、江頭みたいだと言われました。

そして、父はウォーキングのときに、サーチアンドデストロイと描かれた(自分がマジックで描いた)キャップを被ってます。

タイトルはサーチアンドデストロイの最後のほうのシャウトを表現してみました。
  1. 2008/05/04(日) 11:26:36|
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ダメさに身を浸す

 「自分自身の不幸な境遇を望む人は居ない。いつでも、不幸は予知しないところから偶然、来る。
身体から、社会から。
その偶然を「自ら望んだ」と思うことによって、自らを治療、健康にすることを人は望む。(多分、にーちぇはそんなこと言ってた)

自ら望んだと言うために、不幸を題材とした表現(?)があるのではないだろうか。人が日常で行う反省はその行為であると思う。

読者に理解してもらうために作品は書かれるが、理解してもらうのと「自分と同じ感性、領域の人のために書く」のとは全然反対であると思う。
読者に理解してもらう場合には、自分の感性、領域を読者に合わせる必要などない。
自分と同じ感性、領域の人のために書く場合にはどれだけ技巧が優れて反省が良く出来ているとしても、ただの反省の域をでない。

読者に理解してもらうとしてもなにを理解してもらうのか。


「…さて、バウマンのコミュニティ論であるが、その結論は「このままではコミュニティは際限なく衰退していくばかりだろう」というものになっている。
 そう結論づけたくなる原因はいくつかある。柔らかいところからいえば、まず第1に、「放っておいてほしいんだ」「どこにも属したくないんだ」と言いたい連中が急激に広まっているということがある。これを社会学では「脱領域性」(exterritoriality)というのだが、自分の周辺以外は無関心でいたい、所属領域から分離されていたっていい、面倒なら引き下がればいいんでしょうというような心情が、企業にも近隣にも官僚社会にも学校にも蔓延しつつあるわけなのだ。…これでは本気のコミュニティなどできるわけがない。せいぜいブログやミクシィで疑似コモンズに遊ぶ程度のことだろう。しかし本当のコミュニティは「本気になるのは勘弁してね」ではなくて、「勘弁を本気でつないでいくこと」にこそ始まるものなのである。…ついで、これらの柔らかい現象は、もう少し深刻なことにもつながっていた。すなわち第3には、そうした感覚がいまや「新たなアイデンティティ」をもたらすという“勘違い”を決定的にもたらしつつあって、それが社会における流動性をさらに加速させているというふうにもなっているということだ。
…」(↓URL松岡正剛の千夜千冊 )から

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1237.html
  1. 2008/05/01(木) 12:43:49|
  2. 漫画
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プロフィール

夜業 タダシ

Author:夜業 タダシ
社会不適合者。

オケラ舎から「走馬燈」準備号、発売中!マンガ雑誌です。北冬書房、タコシェ、模索舎に置いてもらってます。
連絡は inngoudrgbaik@hotmail.co.jp まで。

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