虚無の会

このBLOGを見るな!!消費税をあげるな!政治家を信じるな!法律を信じるな!著作権の非親告罪化に断固反対!!著作権保護期間の延長にも反対!!

子供がいつもなにかを左手の掌に握っているので、周りの興味を惹く。
母が「なにを握っているの?」と聞いても、子供は黙りこくってる。
父はちょうどいい時宜に小さい策略を仕掛けてみる。夕飯の時に「ちゃんと左手を使いなさい」と、自分はちゃんと胡坐もかかないで片足を挙げた姿勢で座ってるくせに(だから普段は命令などしないのに)命令しだした。
子供は無視して父親は怒ってみたが、別にどうでもよくなった。

この子供の癖はいつからだったか。確か、ちょうど幼稚園に行き始めたときである。

幼稚園でも左手が使えないと不便きまわりなかったので、子供はそのなにかを握り締める行為を三日しか続けられなかった。しかし、左手が使えないとなるとよく三日も続けられたと関心してしまう。
そして、と言っても不便さがキッカケで辞めたわけではない。不便さは子供に冒険を作り出す。では一体何故掌を開いてしまったかというとちょっとした事件を説明しなければならない。

一緒にいたもう一人の子供が気になったらしくじっと見ていた。その子供は手になにか隠していると思ったらしく先生に言いつけた。


「先生。○○君が〜、手になにか隠してます!!!」

その子供はいつしか親と一緒に猫とじゃれあいながらテレビで見た戦争映画の口真似をなんとなく思い出し、してみた。そしてその口真似は以降、お気に入りのものとなった。

先生はなにか飴でも隠しているんだろうと思ったが一応、隠している子供に問い質す

「一体、なにを隠しているの」

当然、黙っている。

そして、その二人の空間にわらわらと子供達が集まりだした。そして言いつけた子供が大声でテレビで見た演説する政治家の真似で皆に説明しだした。
そうすれば、隠している掌をこじくりあけようとする奴がでるとしてもおかしくはない。それでなければなにがあるのかと雁首ならべてる好奇の目だ。
先生は「やめなさい!」と怒鳴ろうとしたが、握り締めていた手は呆気なく開かれた。一切の目が集中する。

手にはなにもない。

「なーんだ、なんにもないじゃん」

これが小さい事件の顛末。
しかし、皆の目が注がれる事件の後も誰にも見られない日常が続く。子供は畳に寝そべり手の平を見つめている。父も母も掌のことは忘れている。手の平には無数の線がびっしりと刻まれている。親指と人差し指の間からの太い線は罅割れのように見える。そのひび割れた線は二つに分かれて、育ちかけの林檎の木のようだと思う。
時が過ぎれば自分のこともかつてとなり忘れる。
しかし、コンビニのバイトをしてお金を貰い差し出す作業をし、黒ずんだ手などを見ていると、突然そのことを、バイトに行きたくなくて眠れなくて魘されて汗をびっしょりかいて起きた真夜中、天井をボ〜っと見つめていたら突然思い出した。

もし自分が今なんにもない手を差し出したりしたら、そこにお金があると思っている客は「こいつ、頭おかしいんじゃねえか?」と怖くなるだろう。









  1. 2008/04/28(月) 23:05:36|
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確かに

犬「なにもかも終わったのかもしれない。遊び以外は。だとしたらなにかを信じてるなんて言わないでほしい」

猫「伝言ゲームは間違いだらけで、嘘みたいな本当みたいな、確かなみたいなことばかり」

猿「だとしたら、テッテ的にダメになって確かなことなんて全部なくなればいいのに、目的のための計算ばかり」

雉「テッテ的なんていうから、ダメになりきれないで笑いあってしまうんだ」

  1. 2008/04/28(月) 14:52:42|
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h「…つまり、失敗を表現しようとする場合に「上手に表現する」というのはおかしいんじゃないかと思うんです。」

g「つまり君はこういいたいのだね、「失敗を上手に表現するのは矛盾している」と!」

h「今、自分が言ったこと言い換えただけじゃないですか!」

g「しかし、失敗を失敗して描くというのは、当初の書きたい失敗を描けなくなるということになるね」

h「だから、その失敗に誠実になれば、自分事態が失敗した状態になって描かなければならくて…」

g「ちょっと待って。hさんは失敗を絶対的に誰から見ても失敗だというふうに考えていないですか?」

h「考えていますよ」

g「それはちょっと違うと思うんだ。ある視点から見れば失敗かもしれないけど、違う視点から見れば成功かもしれないということもある」

h「「失敗を糧にして」なんていう当たり前のお説教ですか?」

g「いや、そういうことじゃなくて、その失敗をただダメなものだと考えてはいけない、もっと必要なものであると思うんだ」

h「やっぱり、失敗を糧にしてということじゃないですか」

g「その前に、hさんがいう失敗ってなによ?」

h「いや、仕事でミスしたとか、あんなこと言うんじゃなかったとか、あんなことするんじゃなかったとか」

g「あんなことっていうのは?」

h「友達に対する言葉使いがもうちょっとこうできたな、とか、まぁ口にはできないような恥ずかしい自己嫌悪に陥るような…」

g「そんなこと?」

h「そんなことっていいますけど、人の悩みに大も小もないですよ!」

g「う〜ん、表現のほうに話しを戻すけど失敗を失敗するという場合、表現としてはなんでもありになるんじゃないかい?」

h「それでも失敗を上手に書くというのは矛盾してますよ」

g「hさんのいう失敗は、そりゃあ現に社会に参加しようと頑張っているhさんからしてみれば憎むべきものだろうけど、表現にとっては失敗でもなんでもない面白いものになる可能性は十分ありえる。失敗がない物語なんてないんだから」

h「でも自分が書くことがただの慰みものになるのは嫌ですね」

g「それは傲慢っていうもんだよ」



  1. 2008/04/27(日) 21:00:48|
  2. 対談
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無意識的反抗=あっマタヤッチマッタ

意識的に「ちゃんとやらねば!」と思っても、抑圧された無意識が反抗心を起こすのか、何回も失敗する。

そんなことをする度に、「なんで、こんなことやってるんだ」と問わずにはいられない。

しかし、問いをする人は不幸でなんにも疑問を持たず生きて死んだほうが幸せだ。
  1. 2008/04/26(土) 14:01:02|
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宣告

やるべきことは数多く、実際にはそのうちの一つか二つがやりとおせるだけだったりするのが世の常なりにけりけり

ですが、一応どこかで宣言しておいたほうが「やらねば!」という気勢が出ると思うんで、ここで宣言しておきます。

1.「虚無の会」を作りました。こういうのは誰かに許可とるもんじゃないので、勝手に作りました。そして、できました。活動内容は未定ですが、勉強会、研究、野外活動などを予定しています。将来的にホームページ作りたいと考えてます。おっと!走馬燈のほうも作ります。会員募集中です。

2.兄のお下がりのギターとベースと父が仕事のために買ったICレコーダーで宅録してそのうちアップします。最近は兄のcd(ニールヤングとか)を勝手に借りて聞いてます。ニールヤングのギターの歪みかっこいい。

3.マンガ完成、間近です。北冬書房のほうに送らせてもらいますが、載らなかったらブログにアップしようと思います。



最近は桃、梨、桜、林檎の花が咲いてきて、蝶は飛んでるし、猫はなにか佇んでるし、見かけは物凄い平和な感じです。こんななかに居るとデュオニソス的(?)に叫びたくなります。

そして、ある友達から久しぶりにあっちからメールが来たと思ったら「(自分の名前)君って板尾に似てるよね?」とかゆうふざけたメールでしたw。あんな犯罪者になんか俺は似てない!俺はもっと違う別種の犯罪者の顔だぜ!
  1. 2008/04/23(水) 10:02:11|
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謝罪文dada

 薄々気づいたことが、今に来て(予兆)、ダメになると思った瞬間(予兆)にだめに、目の当たりにしてしまって(対峙)、頭がグラグラして(興奮)、終わりにならないかな、終わりにならないだろうな、まだだめだろうな、もうちょっとだ、と思ったらまたミスして(諦めと努力と諦めと努力の巡回)

何故、一つのミスで「これだから俺はだめなんだ」、全否定されたような気になるののか。笑いながら慣れ「るしかない」「もっ「と辛いヒトタチダッテイルンダカラ」だ

 口にする言葉は「すいません」でも「もう嫌だ」、「有難うございます」でも「もう嫌だ」だ。

日々が言うのは「なにが嫌なのか」 俺がいうのは「嫌だから嫌だ」

日々生きるための研究者は何故、嫌なのかを纏めてテレビで放送する。俺がいうのは「嫌だから嫌」

死にたいのか「もう嫌だ」生きたいのか「もう嫌だ」 

誰かが日々と和解するために笑ってる。誰かが日々と和解するためにパンとおにぎりカップラーメンを販売、流通、食ってクソして寝て朝しごと。
酒と歌謡曲がダメになりそうな人の薬になる。

子供がオモチャを買ってもらえないで泣き叫ぶ。

誰かが文句を言っている。


解ったことは、言葉のための言葉。明日のための今日。誰かの代わりの私。




社会的関係(家族、仕事、)に還元されない関係などがあるだろうか。そんなものがあったとして、それは反社会的だ。

テーマ:日記 - ジャンル:日記

  1. 2008/04/21(月) 21:24:53|
  2. 日記
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難しいんだよなぁ…

 本当に、FC2の管理画面のSpiky incとかっていう動画の宣伝がうるせえ。光回線だったらどうってことないだろうけど、こっちはISDNなんだよ!文句あるか!
 あっ、あとブログばっか書いてるような気がしますが、マンガのほうもちょっとずつ進んでます。

 続きでは自分の題目「何故60年70年時代の文化に魅かれるか」ということについてメモをちょっと書いてみます。 [難しいんだよなぁ…]の続きを読む
  1. 2008/04/19(土) 23:45:34|
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歴史(今、誰かがいう過去にあったこと)に対する態度

 を自分は決めかねている。歴史を知ることによってその時代を体験できるなどとは微塵も思わない。
知ることと体験することはまったく違う。言葉なき人たちの代弁などできるはずもない。できるなどと思うのは自他を裏切る短絡的な思考だ。(それとも過去にあったことをじぶんのこととして感じるとでもいうのか?それは人の痛みを自分の痛みだということに等しい。過去の原因の結果として自分が居るならばそのようなことも十分ありうる。しかし、それを知ることはできない。過去の痛みと今の自分の痛みが繋がっているとしても別の立場においてそれを感じているのだから痛みは変質し続けるだろう。共感した場合、共感したもの同士は共感したことを知らない)
 しかし、だからといって歴史を知らなければいいということでもない。歴史の過渡的結果として私達は居るのだから歴史を知らないのは原因を知らない、つまりなんで自分が今あるのかを知らないからだ。

 まるで、今までの過去の文化を否定する(表現の否定や肯定なんて単なる態度の表明に過ぎないけど)ことが今の私達の文化でできるというのは間違いだ。その逆で、否定するべきものがあるのは、否定するものに依存していることであり、どんなにその否定するべき過去を除外しようとしても除外すればするほど依存していることを知らなくなる。例えば今の見せ掛けの虚無的気分は過去の(今から見れば胡散臭い)ロマンチズムの残骸である。



おそらく私達は歴史に対して利用するか信仰するしかないんだろうか。






  1. 2008/04/19(土) 14:55:32|
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我が内なる白雉に無料全力奉仕する知

 バイト帰りに店長に「バイトをやめたい」と言ったら言いくるめられて最終的に

「じゃあ、もうちょっと考えてみます」
「そうだね、もうちょっと様子見てみて…」
「じゃあ、失礼します…」
「お疲れ様でしたー」
「じゃ、お疲れ様でしたー」

という顛末になった。雰囲気に呑まれ易いから…。しかし、辞めるとしても一ヶ月はやんないといけない。バッくれたらどうなるんだろうか。

バイト先の店長を初め皆いい人達なので、余計辞めにくい。嫌な人たちだったら「ざまあみやがれ!ヒヒヒ!」ってな感じな気持ちになるんだが。


どっちにしても生活に逼迫してる人たちはそんなことなんか考えないだろうな…。

本当に辛いときは脳内で自分が三人になってああでもないこうでもない会議を繰り広げます。

情けない…。どうしようもない…。あ、あ、あ、あ、あ。しっかりしろよ…。もうだめか…。あ、あ、あ。

なんちゅう暗い会議だ!
  1. 2008/04/18(金) 10:07:29|
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ナボコフのロシア文学講義

 その名の通り「ロリータ」で有名なナボコフの大学での講義のための文章を収録した本。ネットで調べてもかなり高くプレミアついてるみたいで、当然ながら図書館借りてきた。

 ここで講義されているのは、ゴーゴリ、トルストイ、ツルゲーネフ、チェーホフ、ゴーリキー、ドストエフスキーだ(ったような気がする。一ヶ月まえぐらいに読んで返してしまったので曖昧です)。

 確かこの講義は80年代にアメリカで行われていたもので、ソ連の芸術に対する弾圧を痛烈に批判(というよりバカにしてる)している。
 そしてもう一つバカにされているのがフロイトだ。おそらく文学者からしてみれば、フロイトのやり方は、人に対してなんでも病名や原因をきめつけてしまうように見えるだろうから敵にしか見えないだろう。
 そしてアメリカの民主主義はまだソ連の弾圧の仕方に比べてまだマシだということを言っている。この姿勢は今のオタクと言われる人とそう変わらない。

 そしてまたもう一つ面白いのはトルストイが激賞されてドストエフスキーがボロクソに叩かれていることだ。
まず、ドストエフスキーが海外ではロシアの名作家だというふうに思われていることを残念だという。つまり、文体も構成もお粗末なただのミステリー作家だと言いたいわけだ。次いで、その批判の矛先はドストエフスキーの宗教観(ロシア正教)に向けられる。(この宗教に対する不信感はトルストイにも向けられている)で、結局のところドストエフスキーは頭のおかしい人をばかり登場させて読者を魅き寄せてさせ、その登場人物の性格などというのも物語の中では一定して固定されていて物語のなかで変化しない駒だ、ということを言い、そしてこれを書いているドストエフスキーはこれら狂人よりも自分はマシな存在だという思いを持っているという穿った見方をし、そして偏った宗教観を批判される。で、ナボコフの関心は畢竟、ストーリーの構成の仕方と文体に向けられるため、ドストエフスキーの書き方は戯作などのほうが向いているのではないかということになる。

 もう一方のトルストイはどうか。あまりにもオタク的すぎる気がして、書こうと思ったがあまりその気になれない。結局のところ書き方がナボコフの関心事であると思う。

 しかしゴーゴリの講義は面白かった。要約すれば、死せる魂の一部を最後にして、第二部から想像力が枯渇してだめになってしまったと書かれている。死せる魂一部は作品の良い部分が講義され(例えば物凄く綿密に格好が描写された人物がその後のストーリーに一切関係ないだとか比喩の連鎖の果てに関係ない人物が出てくるだとか)、第二部以降に関してはゴーゴリの実生活での変人ぶりが描写される。結局、ゴーゴリはゴーゴリの世界の住人になってしまったのかもしれない。


しかし、この本で面白かったのはドストエフスキーに対する批判だ。その批判の内容よりも、ドストエフスキーをここまで扱き下ろした文章は見たことがないからだが、自分もドストエフスキーには(そしてその系統の文学)少なからず違和感を抱いているからだ。
その違和感を列挙してみる。


1、脳内実験という方法だといいながら、世界はこんなもんだという作者の心情が見え隠れする。書かれる人物は作者のこうなったかもしれないもう一人の人物 というが、実際に書いているとき見るときは、客観的に描写し読者は客観として見て、「世界、世間も人物もこんなもんだろ」というふうにしている。つまりうまくいえないが、作者も読者もはこれが自分の主観だと思ってはいないだろうということ。

2、その結果として、作者、読者の欲望としてのミステリアスな出来事、人物が描写される。このような方法を通して暗い出来事も魅力的なこととして描写できる。

3、何度も書くが、人物を世界を決め付ける行為ばかりが眼につく。その行為はお粗末なホームドラマの仕方とそう変わらない。違和感を覚えるのは徹底された主観としての描写ではなく客観として描写されるからだ。その意味で、私小説より信用できなく不誠実である。このような小説家が書くことは何一つ信用できない。

4、結局のところ、「これは自分の主観でしかない」ということを忘れては駄目だということだ。それを忘れたら、作者と読者の共同幻想を生まれさせるような機能しか持たない。


余談:斉藤さんとお話ししているときに、この本の話をして「ゴーゴリって変人ですよね」と言おうとしたら「ナボコフって変態ですよね」と言ってしまい、「そうですよ、文学講義なんてできる人じゃないですよ」という返答が帰ってきた。

  1. 2008/04/10(木) 14:10:09|
  2. 文学とか
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受け継がれる歴史

 先祖は次の世代に受け継ぐべきものを残し、無駄なものは一切排除した。その繰り返しが何回も続いた。性交を繰り返し成功させた者たちだ。もちろん、生き残ったものたちは強い者達なのだが、慰み程度に弱い者たちに対して可哀想だと思う気持ちは捨てなかった。何故なら、それが強い者の証であり、いつでも強い者は弱い者を利用するのであったから、なんの利害もない憐れむ気持ちは強い者たちへの格好の薬となる。

 あるいは、そんな憐れむ者たちに対し「そんなものでは物足りない」といって、終始弱い者を忘れずに居ようという宗派、薬局が生まれた。注目したいのは、弱い者たちを知らしめるために自分たちもその者たちに出来る限り境遇を近づけようとしたことだ。もしくはもとから一緒だったかもしれない。滑稽なことに自分自身の驕りからAがAを哀れんでいたということでしかなかったかもしれない。そんな者たちであるから皆自分自身のなかでは強いものたちであった。


 何代目かにあたる者が路上でゲロを吐いた。内臓までもを吐き出してしまった。その果てには口を媒介にして体が裏返された。つまり、傍から見ればその人の中身がすべて見えるということだ。その人の歴史が繰り出されたのである。その姿はグロテスクその物である。

 周りの者たちもその姿を見てゲロを吐かずにはいられなかった。そしてまた同じような格好になるのである。

 その自分のエロ…ではなくゲロを見れるのは吐いたときの一瞬だけである。そしてたちまちに、眼のまえは内臓の皮に覆い尽くされて真っ暗闇になる。

 
これは寓話でもなければ比喩でもない。事実だ。

「おまえのなかだけでの事実だ」という人が居るかもしれない。しかし、本当の事実などというものは一体誰の口が決めるのか。おまえの事実やおまえの事実がそれこそゲロとしてあるばかりではないのか。 
  1. 2008/04/07(月) 13:35:00|
  2. 日記
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ふみきり

 自転車に乗り夕焼けが広がって山沿いにできている図書館は休館日だった。仕方がないので来た道を戻った。
その図書館のすぐ近くの踏み切りの近くまで来るとカンカンカンと鳴った。踏み切りの前の棒が下がってそのまえで自転車を止めた。

 自転車が止まった傍のところで、なにかがうごめいていて、びっくりしてよく見ると老婆が踏み切りのコンクリートの間から咲いている草花に水をかけていた。

 電車が前方から見えて来た。「このばあちゃんは、近所の人でいつも水をかけているに違いない。つまり、水をかけている途中に電車が来るなんていうのは日常茶飯事だろう。ここで自分が「危ないですよ!」なんて声をかけたら「んなもん知ってんだよバカにすんじゃねぇここに何年住んでっと思ってんだ」と感じるに違いない。いや…」と観念の自家中毒をしている間にも電車は近づいてくる。

人はネタか

その瞬間に自転車は「車掌のほうがどいてほしいだろう」という結論に達し、「ちょっと下がったほうがいいんじゃないですか」と言ったら、老婆はこちらを見上げ「そうだね」と言って退いた。 [ふみきり]の続きを読む
  1. 2008/04/06(日) 23:21:41|
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もうだめだとおもう
  1. 2008/04/06(日) 11:27:38|
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複雑な心境

http://blue.iruka.ne.jp/a10/iruka.cgi?kasihon 

 確かに、宮岡さんの指した作品群は雰囲気の粋を出ないかもしれない。つまりこちらが作品について書く以前に書くべきほどの思想(広義の意味での)が描かれていないので、作品について書けない。

 しかし、自分の意見はちょっと違う。川崎作品には、当然ながら写真だけ(所々加工されている場合もあるけど)使っているというのが解ってしまい良い作品だとは思えない。
 確かに写真を使うことで、ある効果が得られる可能性はある。しかし、この作品ではそれが成功しているとは思えない。

 それに対して、吐血作品、佐々木作品にも不安にさせる危うさは見受けられる。この危うさは自分自身に対してのものでもある。しかし、そのような危うさもなく今の世代が描けること事態がおかしい。 その私自身ものでもある危うさと対自していくしかない。この両作品はまだ描いていない。まだまだこれから描いていくしかないし、自分はその作品を見てみたい。
 ある非の打ち所がない完璧な作品のコピーを何回も見るよりは、模索していく過程の失敗作のほうを自分は見たい。むしろどんどん(誰から見てだかしらないが)失敗していくべきだ。

 一つの方法があるとして、それを参考にするのはいいが別の複数の方法と比べ、その方法では駄目だというのはおかしい。まだ誰も試していない別の方法は楽天的だと言われるだろう。そう云われながら模索するほかない。
  1. 2008/04/04(金) 10:14:59|
  2. 漫画
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自閉自壊

いつまでも一つの村の門は開いている。けど、村人の心は開いちゃいない。村人にはその村人の決まりがある。外部者が口出しするのはよしたほうがいい。
開かれた門は、閉じられた者同士の開かれた門だ。

  1. 2008/04/03(木) 18:24:47|
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弱きものなどいない。

国家は個人、個人は国家。弱いものなんていない。弱いものを神格化するな。弱いものなどどこにもいない。
  1. 2008/04/02(水) 18:06:27|
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不誠実な誠実さ

 山田花子、ねこぢるは自分に対し誠実だったのである。それが不誠実さとして現れただけだ。その不誠実さを避けるにはどうすればよいのか。簡単な方法は不幸な者に対しての視点としてのお話しを書けばいいだけの話しである。

 それはともかく、今の作品はどうだろうか。「アックス」を散見する限りでは(あまり多く見たわけでないけど)誠実さが見えるのを出来る限り避けようとしているような印象を受ける。
 
 いわば、山田花子作品もねこぢる作品も気分、態度として消費され飽きられ、もっと違う態度が望まれた結果として「反」でもない、暗くもない、明るくもない、お笑いでもなくナンセンスでもなく…。作品がそのような、ああいえばこういう的なモノとして完成していると言いたいのではない。大体の作品が一応のところの枠組にはまっているから(ナンセンス、タブーネタのお笑い、子供の残酷さ、など)。しかし、少なくとも求める自らの態度はニヒリスティックなああいえばこういう態度だろうと思う。少なくとも自分はそのような態度をアックス作品群に垣間見た。(幻燈に載る作品にもその特徴はときどき見受けられる)

 今回の架空2号に話しを移そう。と言っても、個々の作品群を詳しく見ていくのはここではやめる。今は個々の作品の背景となる気分に対しての自分の反応的気分を書こうと思う。自分の印象は、描くべきこと、描きたいことがないのだろうか、ということだ。(自分がそうなだけかも知れない)絵だけを描きたいのであれば、文だけを書きたいのであればマンガを書く必要はない。それとも描きたくても描けないのか。それとも自分の感性が駄目なだけだろうか(若い人たちにはもう自分はついて行けない!)。
 
 つまり、不誠実さに誠実でなければ、時代錯誤な作品になってしまうということであり(時代錯誤が流行るということもある。時代錯誤が時代の気分となることもある)、そのような時代錯誤な作品で優れたものを書くのはかなりの力量が強いられるのではないかということだ。
  1. 2008/04/02(水) 12:02:40|
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不誠実な誠実さ 1

もっと正確にいうなら、不誠実として現れる誠実さ。

 前々からガロやアックス架空を読んでいて薄々、薄い頭を過ぎっていた言葉だが、今回の「架空2号」を見てガンガン頭の中で鳴っていた。
そんなにすべてを見てるわけでないから大それたは言えないが面白主義あたりのマンガが出てきた頃からその不誠実さは現れてくるように思う。
その不誠実さは作家が自分の本当に思っていることの態度表明として現れる。いや、自分が本当にそう思っていると見られたい態度表明だ。
 
 ガロでは80年代から今に至るまで、そのような不誠実な態度表明がずっと続いている。態度表明事態は表現する限り避けられないことだが、同じような不誠実さがずっと続いているというのはちょっと異常だ。もちろん、そのような表現以外の作品もある。しかし、そのような作品はただ良く出来ているお話に墜している場合が圧倒的に多い。 
 

 具体的には自分が言う不誠実さはどうゆうふうな表現を指すか。例えば、山田花子作品のストーリーは悲惨であるが、人物は根本敬の系譜のヘタウマ系をもっと乱雑に汚く描いたような文字通りの悲惨さとは遠く離れている。ここで、ストーリーと描写のギャップでもっと悲惨な滑稽な残酷さを表現している。このような方法はずっと昔からあるだろう。水木しげるなどの方法に似ているかもしれない。しかし、水木しげるの場合はその方法が自らの諦念として現れていている。その滑稽さは許容としての滑稽さだ。山田花子の場合には全部こんなもんだとでも言いたいようなふうである。その態度には綺麗なものなどありえないと自他に言い聞かせるような人物の書き方である。そしてそれは自分にはこうとしか思えない、もしくは全部どうでもいい(どちらも言葉が違うだけで同じ心境を指す)という誠実な心境が根拠として成り立つ。自分が汚いと思うことは嘘を言わず汚いとそのまま嫌な顔をされても言う誠実さである。
 そしてねこぢる。こちらは、後期あたりの商業誌に載った作品群では旅行記などを除いて残酷描写ばかりで見るべき作品はあまりない。初期のガロに描いた作品では子供の感性の残酷さをそのままに表現していた。山田花子と同じく汚い者は汚く描く。そして山田花子作品が学校やバイト先などの舞台が多いのに対し、ねこぢる初期作品は(猫の)子供の兄弟が家、家の近辺が舞台だ。そして労働者や狂人、ホームレスやじじいばばあがよく描かれる。そして神様に労働者が大嫌いだと言わせる。

 山田花子、ねこぢるに一貫しているのは汚い、嫌悪感持ったことはそのまま描く、差し出すということだ。決して汚いことをそのまま描くのではない。汚いと思った自らの嫌悪感をそのまま書くということであり、現実を書こうとするのではなく、自らの現実、現実に対し思うところの現実を書き出そうとすることだ。道徳や社会的なものに対する反感としての表出である。そしてその表出は否応なく反応的なものとなる。何故なら、当然、嫌悪感を書く場合に対象がなければならないからで、言い換えるなら、自ら思うところの現実があるには現実がなければならないからで、更に言い換えるなら、道徳や社会に対する「反」ならば、道徳や社会を描かなければならないからである。
  1. 2008/04/02(水) 10:52:57|
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プロフィール

夜業 タダシ

Author:夜業 タダシ
社会不適合者。

オケラ舎から「走馬燈」準備号、発売中!マンガ雑誌です。北冬書房、タコシェ、模索舎に置いてもらってます。
連絡は inngoudrgbaik@hotmail.co.jp まで。

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