その名の通り「ロリータ」で有名なナボコフの大学での講義のための文章を収録した本。ネットで調べてもかなり高くプレミアついてるみたいで、当然ながら図書館借りてきた。
ここで講義されているのは、ゴーゴリ、トルストイ、ツルゲーネフ、チェーホフ、ゴーリキー、ドストエフスキーだ(ったような気がする。一ヶ月まえぐらいに読んで返してしまったので曖昧です)。
確かこの講義は80年代にアメリカで行われていたもので、ソ連の芸術に対する弾圧を痛烈に批判(というよりバカにしてる)している。
そしてもう一つバカにされているのがフロイトだ。おそらく文学者からしてみれば、フロイトのやり方は、人に対してなんでも病名や原因をきめつけてしまうように見えるだろうから敵にしか見えないだろう。
そしてアメリカの民主主義はまだソ連の弾圧の仕方に比べてまだマシだということを言っている。この姿勢は今のオタクと言われる人とそう変わらない。
そしてまたもう一つ面白いのはトルストイが激賞されてドストエフスキーがボロクソに叩かれていることだ。
まず、ドストエフスキーが海外ではロシアの名作家だというふうに思われていることを残念だという。つまり、文体も構成もお粗末なただのミステリー作家だと言いたいわけだ。次いで、その批判の矛先はドストエフスキーの宗教観(ロシア正教)に向けられる。(この宗教に対する不信感はトルストイにも向けられている)で、結局のところドストエフスキーは頭のおかしい人をばかり登場させて読者を魅き寄せてさせ、その登場人物の性格などというのも物語の中では一定して固定されていて物語のなかで変化しない駒だ、ということを言い、そしてこれを書いているドストエフスキーはこれら狂人よりも自分はマシな存在だという思いを持っているという穿った見方をし、そして偏った宗教観を批判される。で、ナボコフの関心は畢竟、ストーリーの構成の仕方と文体に向けられるため、ドストエフスキーの書き方は戯作などのほうが向いているのではないかということになる。
もう一方のトルストイはどうか。あまりにもオタク的すぎる気がして、書こうと思ったがあまりその気になれない。結局のところ書き方がナボコフの関心事であると思う。
しかしゴーゴリの講義は面白かった。要約すれば、死せる魂の一部を最後にして、第二部から想像力が枯渇してだめになってしまったと書かれている。死せる魂一部は作品の良い部分が講義され(例えば物凄く綿密に格好が描写された人物がその後のストーリーに一切関係ないだとか比喩の連鎖の果てに関係ない人物が出てくるだとか)、第二部以降に関してはゴーゴリの実生活での変人ぶりが描写される。結局、ゴーゴリはゴーゴリの世界の住人になってしまったのかもしれない。
しかし、この本で面白かったのはドストエフスキーに対する批判だ。その批判の内容よりも、ドストエフスキーをここまで扱き下ろした文章は見たことがないからだが、自分もドストエフスキーには(そしてその系統の文学)少なからず違和感を抱いているからだ。
その違和感を列挙してみる。
1、脳内実験という方法だといいながら、世界はこんなもんだという作者の心情が見え隠れする。書かれる人物は作者のこうなったかもしれないもう一人の人物 というが、実際に書いているとき見るときは、客観的に描写し読者は客観として見て、「世界、世間も人物もこんなもんだろ」というふうにしている。つまりうまくいえないが、作者も読者もはこれが自分の主観だと思ってはいないだろうということ。
2、その結果として、作者、読者の欲望としてのミステリアスな出来事、人物が描写される。このような方法を通して暗い出来事も魅力的なこととして描写できる。
3、何度も書くが、人物を世界を決め付ける行為ばかりが眼につく。その行為はお粗末なホームドラマの仕方とそう変わらない。違和感を覚えるのは徹底された主観としての描写ではなく客観として描写されるからだ。その意味で、私小説より信用できなく不誠実である。このような小説家が書くことは何一つ信用できない。
4、結局のところ、「これは自分の主観でしかない」ということを忘れては駄目だということだ。それを忘れたら、作者と読者の共同幻想を生まれさせるような機能しか持たない。
余談:斉藤さんとお話ししているときに、この本の話をして「ゴーゴリって変人ですよね」と言おうとしたら「ナボコフって変態ですよね」と言ってしまい、「そうですよ、文学講義なんてできる人じゃないですよ」という返答が帰ってきた。
- 2008/04/10(木) 14:10:09|
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テストが控えてあるわけなんですが。読み耽ってしまいました。この本はペシミズムと個人主義の関係を色々な形のペシミズム(ロマン的ペシミズム、歴史的ペシミズム、厭人的ペシミズム、不合理主義的ペシミズム科学的ペシミズム、神学的ペシミズム)を通して研究した本です。なかなかおもしろいです。個人と社会との関係は極めて現代的で永遠の問題なわけなんですが、所々に強く共感できるところがありました。
一番印象に残ったのは
われわれが、客観的教義である社会学主義や合理主義と対照的に、個人主義と不合理主義は主観主義の教義であるいうとき、われわれが"客観的"というこの表現をまったく相対的な意味にとっていることに注意せねばならない。---社会主義も合理主義も、その根底においては、その反対の主義とまったく同じくらい主観的である。唯一の相違は、個人主義と不合理主義がその主観性を認めるのに、これらの独断的哲学がその主観性を認めないだけのことである。問題は、客観的批判と印象主義との論争に関してブリュンティエールとM・ルメルトールとの間に課せられた問題と同じである。客観的と自称する批判も、根底においてはまったく印象主義のごとく主観的である。なんとなれば、この批判もまた、個人的、感情的偏見もふくむからである。唯一の相違は、印象主義が印象主義を自認し、主観性をみとめているところである。客観的批判は主観性を認めていない スカッとしますねえ
- 2006/12/25(月) 17:55:17|
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