昨日の午前3時頃、螺旋3号を読みながらブランショとレヴィナスと埴谷雄高について漠然と考えを巡らしていた。
螺旋は1981年に発行されているがその中の中山雅仁氏の評論の中でブランショの文章が(多分、文学空間あたりだと思う)引用されている。
ブランショやレヴィナスの言っていることと埴谷雄高が言っていることは結構似通っている部分がある。
しかし、全部齧り読みした程度なんで指摘するだけに今は留めておくが、なんでこの連関について書かれた文がないのか解らない。
螺旋に話を戻すと状況論が多いように思う。そこにはちゃんと話し合う姿勢も示さない論敵に対するバカラシサと歯がゆさが感じられた。つまり論敵にもならないバカラシサだ。
こちらもまだ考えが纏まらないままなので指摘するだけに留めておきたい。
ただ話し合うことさえも成立しない歯痒さというのは今のあらゆる表現に関する問題なのではないか?話し合わない人は自分が好きだという物を神格化する。その姿勢は突き詰めればある居直り、開き直りの姿勢だ。
自分はあらゆる者が神格化され、どこにも繋がらない意味しか、現実と繋がらないのであれば
、現実でのある暴力とみられるような神格化を削ぎ落とすような綿密に他の事柄と結び合わせる作業に賛同したい。何故なら人は神格化を避け得ることはできないからだ。断定し完成した物は見る者によって神格化される。
神格化に満足した読者は簡単に他の物に向かうだろう。「それはそれ、これはこれ」「そういうものだ」と言って。自分には必要なくなって読者はそのうち表現を捨てる。
ところで稲垣足穂全集8を借りて読んでいるんだが稲垣足穂、ハイデッガーにはまり過ぎてる。存在に神を見たらしく仏教を全否定してます。最初はネタでやってんのか!と思ったほど。しかし同時に借りてきた全集12ではいつもの稲垣足穂調に戻って短編の物語とか書いてるんだけど。一体どうゆうことだったんだろうか?
あともう一つ高野 文子「絶対安全剃刀 」を買ってきたんだけど.........、やっぱり今のほうが絵もストーリーもいいなぁ。岡田 史子の影響を直に出してるのもあるんだけど、岡田 史子はマンガの表現の幅を広くしたというより、マンガに文学を持ってきただけという感じ(もっと言うと時代の雰囲気にドップリ浸かって女性的感性に篭ってる)がするのであんまり...。
まあ、本質のところでは今と変わんないんだろうけど。
- 2007/11/25(日) 16:50:43|
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線を「ビッ!」と引き、尚且つ下書きどおりに書くには線の終着点を見て引けばいいということに昨日、気が付いた。遅すぎる...。子供の頃から絵を書くのは好きであったが、小さく細かく書いてばかりいたので、大きい絵を描くのには未だに戸惑う。
余談:数学のレポートが再提出で戻ってきた。
- 2007/10/06(土) 14:16:36|
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マンガを急ピッチで描いてるつもりなんですが、なかなか捗りません。というか、ペン入れ自体は結構、早く終わるんですがその後のベタ塗り、白インクで修正、トーン貼りの過程が時間かかります。特に、ベタ塗りと修正のなんですが、丁寧、計画的な人は逆に修正→ベタ塗りとはならないはずです。ですが、あ☆ぷりおりに杜撰な性格の私はベタ

修正と,
こうなるわけです。(「よし!ベタを塗ったぞ!ちょっと、枠線から飛び出した部分があるから、修正しよう!!」........「よし!!、あとは乾くのを待つだけだ!!」.......
!!!!!!.....タダシが見たのは手の平の側面に付着した真っ黒な墨汁....そしてその痕がページに三箇所くらい擦りつけられてる様であった.....)
顧みてみれば、いつも物事を杜撰にやって逆にもっと面倒なことになることばかりでした。んでもって人間革命ってか!
さて......マンガ描きます。
- 2007/09/28(金) 17:46:15|
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まる二日かけて最後までプロット作って途中まで下書き描いたんですが、「ああ、これつまんねぇなこれ、これ」て思って途中でやめました...。というか、人をそのまま描くのがつまんないのです。家族団欒の場面を描こうと思ったんですが、吐き気がしました。ということで、絵のドストエフスキー、パウル・クレー師匠の感じにしようとも思いましたが、また下書き描いてるうちに違ってきました。why?なんで?!
このまえ、家族と年に一度あるかないかの旅行のとき、車内であがた森魚の日本少年の函館ハーバーセンチメントをかけたら、父と母に爆笑されました。父から「これはタダシの歌なのか?」とシツコク聞かれ、普段はこんな荒い言葉使いをしませんが「しらねえよ」と呟いて曲を変えました。そしてそのあと父と母のモラルのなさを延々と一人でブツブツ言ってました。その間自分はずっと半笑いしてました。
と、ここで、もう一つ書きたいことがあります。
ある大作家先生の作品を「スゴイ」と言います。「すごい」と言うのはいいんですが、その次になんか言わないとダメです。
でなければ「すごい」だけの作品だということになります。それは作者に対し失礼です。「すごい」と言われ、それで満足している作者はバカです。まあ、どんなに、その作品について綿々と語っても、なんにも言ってないことになったりもする場合があるわけですが。
「俺はバカだけど」という前提を置いて言いたいこと言う奴が嫌いです。それは自分なんですが、それよりも「俺はこうとしか思えない」という前提を置いたほうがよっぽどいい。
あっと、最近思ったこと。現代美術はクズだというのはいろんなとこで聴くし、自分もそうだと思うのだが、現代美術をクズ、ガラクタだというのなら、今のアニメやマンガも音楽も(とくにアニメやゲーム)ガラクタになるんじゃないのかと思う。その違いがわからない。
- 2007/09/06(木) 14:53:59|
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自分が、性懲りもなく生きているのを支えてるのはやはり死の意識かもしれない。斉藤さんのマンガみたいだけど、精神が追い詰められてくると「いつかは絶対死ぬ」と自分に言い聞かせる。あまりにも浮ついたようにしか見えない状況に対して沈黙を強いたくなる。だけど、そんなことをしたら、現実は状況はますます、悪くなるばかりだ。だけど、現実を取り返しの付かないようにし、抑揚のない生活を送りたいとも妄想する。
全然、話が変わりますが、通常、作品を読んでいて感じる快感というのは作品に自分の感覚が表現されているということに関してだと思います。それは、何度も前に書いたように陳腐なメッセージなどではありません。で、初期つげ忠男作品に関してもそう言えます。しかし、つげ忠男作品は誰をも肯定しません。書いている筆者自身を否定せんとする勢いです。カタルシスをも否定するのですが、自分の場合カタルシスを否定されること、それ自体に快感を感じました。何故カタルシスを否定するかと言えば作品が自身の状況に密接に繋がってるからだと思います。
自分が肯定も否定もされず(あるいはその逆)、いつまでも、ダラダラと続く意識。
自分が手塚 治虫や他のマンガ大半に感じる「嫌らしさ」というのはその作品に作者が入っているように感じられないことです。まるで、神の視点で書いているようで登場人物はまるで、ただの駒です。ただの、コマが生きたり死んだりしているのを見ているだけです。夏目さんとかは、この駒が生きたり死んだりしている描き方や過程を楽しむ、と言っているように思えます。ちゃんと読んでないんでヘタなこと言えないですが。
一方、つげ忠男に関してですが、誰もが最初に見て解るのはつげ忠男自身が作品に入っているということです。だから、作品はあくまでつげ忠男の主観で構成されていますが、前記したように自身は肯定されてません。ちょっと、極端な言い方ですが、手塚 治虫は客観、神の視点で描いているつもりならば、つげ忠男は自殺するようにして描いているのではないでしょうか?
- 2007/07/11(水) 12:50:52|
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