広告はいつも同じことばかりを繰り返していた。手を代え品を代え、言葉を代えて繰り返し、つまり、泣きたいときには泣いて、怒りたいときには怒り、喜ぶときには喜べ、と。
怒ったり、泣いたりするのには、理由がなく泣きたいから泣いたのだ。
その考えは、なんでも反射的に言動させるようにした。「何故そうなったの?」と聞かれれば「そうなったから」 相手が言うことが違ければ「違う」その先はない。
- 2008/03/19(水) 16:27:15|
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走馬燈 準備号は二十日にオケラ舎を代表して斉藤さんが上京しタコシェと北冬書房に置かせてもらう予定です!
宜しくお願いします。
- 2007/12/16(日) 17:02:27|
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どっちにしても、道端で、自己葛藤ショーを見せられるのは敵わない。
エンターテイーメントのなかで叫んだりするのもアホみたい(なんで欝で自傷なんだ。なんでパロディで、媚びた笑いなんだ)アホみたいだと思いながらも見てしまうという心境だろうか?確かにありもしないストーリーの波に乗っかることは心地いいことだ。
てめぇには関係ないだろと言いながらの個人的行為。それを把握する自分。個人行為。それが繁殖するのだから気持ち悪く見えるに決まってる。
- 2007/09/24(月) 16:26:14|
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時代の反映。
今の気分 という言葉が大嫌いです。それを刻みつけようとしなくても今を生きてるんだから結果的にその言葉の内に居るし、刻みつけようとすれば「どうせ世の中こんなもんだろ」という偏見が露呈されるし、
表現は時代の気分の価値観の被害妄想的奪取合戦かもしれない。
- 2007/09/18(火) 15:52:45|
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倦怠感は常に持続する。絶えず這いずり回り、それそのものであろうとしても、尚も、気付いたら、触覚を伸ばしてる自分がいる。これがなければ、どう生きるのだろうか?その自分が無数に居ることを認識するとき、気分は萎え、その無数の暴動に嫌気が差し、もう嫌だと、参加を拒否しようと思った。しかし、それは、もう嫌だという参加であった。そしてそのもう嫌だは無数の自分に共感を与え、もう、嫌だという行動になった。そして、それは、倦怠を生み出す。それに対しもう嫌だ。と反抗し................................................
- 2007/08/24(金) 23:42:00|
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論を書こうとしてますが、これはもう、皆が気付いてる命題なんだなと気付きました。そうでありながら、この悪循環から抜けて論じることは不可能なために悪循環なわけですが。とりあえず大まかに、最初の部分だけ説明します。
例えばどこかの音楽家が自分の不幸をうまく表現した歌をCDで出したりするとします。そしてその歌が人の心に共鳴する歌だったりします。そういう歌は社会の中で生きる人々の心理的状況をうまく反映した歌です。
だが、その場合、音楽家は自分の不幸、苦悩を売り出しているわけです。この構図では、不幸は幸福でもどっちでもなんでもいい。この構図は漫画でもなんでも、あらゆる表現の構図です。そして、そういう場合社会的底辺にいる人間の現実を(願望ではない)忠実に表現できていなければならない。それをマンガという表現で、もっとも成功したのがつげ忠男であった。そして、今の時代では、いや、20年前あたりから、つげ忠男の「屑の街」(あとは林 静一の「鱗粉」)の表現を超えるものは皆無であった。それどころが、つげ忠男自身にも描けなかった。これはなにを意味するのかが本稿の主題です。一つ言いたいのは、この方法論で現実を忠実に表現しようと努力していた人々は居たし今も居るということだ。その努力は認めるけど、作品自体はちょっと、という人が居る。否定するだけでなく、その自分の否定と、「屑の街」「麟粉」に匹敵する作品が出てこないのは、なにを意味するのかを考えなければならない。
- 2007/08/13(月) 15:45:44|
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